ボランティアガイドによる案内や無料のまち歩きマップを片手に、東京スカイツリーからのすみだのまち歩きをお楽しみください。
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幸田露伴が暮らした向島は
ほかにも多くの文人が暮らし、愛した街です。
その足跡を辿りながらの散策コースです。
関東大震災の後、火除け地の設置が見直されるようになり、昭和6(1931)年に名勝史跡である墨堤を復興整備するために設置されました。隅田川の両岸にまたがっており、春は花見、夏は花火見物客で賑わいます。
文和年間に源慶が土中から白狐にまたがる老翁の像を発見。その周りを白狐が三度回って消えたという縁起が名前の由来。三井家が江戸進出時に守護神としたことから、三越池袋店閉店の際、シンボルだったライオン像が寄贈されました。
開基は小田原城主の稲葉正則、開山は京都の黄檗宗万福寺の創建にも尽力した鉄牛道機禅師。勝海舟は19歳から20歳の頃、島田道場で禅学を勧められて、ここで4年間修業したと「氷川清話」で語っています。
近代日本を代表する俳人の正岡子規は、向島周辺の景色を好み、隅田川と墨堤の自然がよほど気に入ったのか、大学予備門の学生だった頃、長命寺桜もち「山本や」の2階を3ヵ月ほど借り、自ら月香楼と名付けて滞在していました。
「赤い靴」「七つの子」などで知られる童謡・民謡作家の野口雨情が、昭和8(1933)年にこの地を訪れた際に作った詩「都鳥さへ 夜長のころは 水に歌書く 夢を見る」を刻んだ碑です。
幸田露伴の区内3番目の家があった場所。露伴自らが設計を行い、身一つで移動できるカタツムリになぞらえて「蝸牛庵」と名づけました。現在は露伴児童遊園となり、この家で書かれた「運命」の碑が建てられています。
府立第七中学校(現在の墨田川高校)は、大正10(1921)年に創立し、近くに住んでいた幸田露伴に校歌の作詞を依頼しました。「隅田の川は吾が師なり」で始まる校歌は、今も歌い継がれています。